1件の重大事故の背後にあるヒヤリハットから、報告しやすい職場と教育の在り方を考える。
夕方の食事介助が終わり、職員が片づけに追われている時間帯。
ある利用者が、飲み込む際に一度だけ激しくむせました。
しばらくすると呼吸も落ち着き、本人も「大丈夫」と話しています。
介護職員は、少し迷いました。
「事故になったわけではないし、報告書を書くほどではないかもしれない」
「今から記録を増やすと、業務が終わらない」
「自分の介助方法が悪かったと思われるのではないか」
「上司から注意され、評価が下がるかもしれない」
そして、その出来事は誰にも報告されないまま、一日の業務が終わりました。
しかし翌日、別の職員が同じ利用者に同じ姿勢で食事介助を行い、今度は食べ物を喉に詰まらせてしまったとしたらどうでしょうか。
前日の「むせ」が共有されていれば、姿勢や食事形態、介助方法を見直すことができたかもしれません。
一見すると何事もなく終わった小さな出来事が、実は大きな事故を防ぐための重要な情報だった可能性があります。
このような場面は、特別な施設だけで起こるものではありません。
どの介護現場でも起こり得ることではないでしょうか。
なぜ介護職員は「記録」を苦手と感じるのでしょうか
介護職員が苦手、あるいは負担に感じる業務として、「記録」や「報告」が挙げられることがあります。
現在では、介護記録システムやタブレット、音声入力などが導入され、以前に比べれば入力作業そのものは簡素化されてきました。
それでも、記録に対する苦手意識がなくならないのは、単に文章を書くことが面倒だからとは限りません。
その背景には、報告した後に何が起こるのかという不安があります。
ミスを報告したら叱責されるのではないか。
自分だけが責任を負わされるのではないか。
能力が低いと判断され、評価が下がるのではないか。
周囲に迷惑をかけたと思われるのではないか。
そのような心理的な負担がある職場では、職員は事実を正直に伝えるよりも、「できれば自分で収めたい」「軽いことなら黙っておきたい」と考えるようになります。
しかし、報告されなかった出来事は、施設にとって「起こらなかったこと」と同じです。
原因を検証することも、他の職員へ注意を促すことも、再発防止策を考えることもできません。
1件の重大事故の背後にあるもの
こうした小さな出来事の重要性を示す考え方の一つが、ハインリッヒの法則です。
ハインリッヒの法則では、1件の重大な事故の背後には29件の軽微な事故があり、さらにその背後には、けがや事故には至らなかった300件のヒヤリハットがあるとされています。
一般的には「1対29対300の法則」と呼ばれています。
この数字を、すべての介護事故にそのまま当てはめることが目的ではありません。
重要なのは、重大事故が突然、何の前触れもなく起こるとは限らないということです。
その前には、
「転びそうになった」
「薬を渡す相手を一瞬間違えそうになった」
「シャワーの温度を確認せず、利用者から熱いと言われた」
「食事中にむせたが、すぐに落ち着いた」
「利用者同士の口論が、つかみ合いになりそうだった」
といった、小さな異変や危険の兆候が存在している可能性があります。
厚生労働省の介護事故予防ガイドラインでも、ヒヤリハットや事故を収集するだけでなく、原因分析と再発防止に活用できる仕組みを構築すること、多職種で多面的に検討することの重要性が示されています。
ヒヤリハット報告書は、誰かの失敗を記録するための書類ではありません。
まだ事故になっていない段階で危険に気づき、次の事故を防ぐための情報です。
事故の原因を「その職員の不注意」だけで終わらせない
例えば、入浴介助中に職員がシャワーの温度確認を忘れ、利用者から「熱い」と言われたとします。
このとき、
「担当職員の確認不足です」
という結論だけで終わらせてしまえば、再発防止にはつながりません。
なぜ確認できなかったのでしょうか。
同じ時間帯に複数の利用者への対応が重なっていたのかもしれません。
職員が長時間勤務や夜勤明けで疲れていたのかもしれません。
新人職員が正しい手順を十分に学べていなかった可能性もあります。
温度確認の手順が職員によって異なっていたのかもしれません。
浴室の設備や温度調節機能に問題があった可能性もあります。
事故やヒヤリハットの原因は、一つとは限りません。
利用者本人の状態、介護する職員の状況、施設の設備や勤務体制など、複数の要因が重なって起こります。
だからこそ、
利用者の視点。
介護する側の視点。
施設環境の視点。
この三つの方向から検証する必要があります。
個人を責めるだけでは、同じ状況に置かれた別の職員が、再び同じミスを起こす可能性が残ります。
必要なのは「誰が悪かったか」を急いで決めることではなく、「なぜ起きたのか」「次はどう防ぐのか」を組織で考えることです。
外国人職員は「報告する」という文化まで理解できているでしょうか
外国人介護職員が増える介護現場では、この課題をさらに丁寧に考える必要があります。
例えば、外国人職員が移乗介助中に、利用者の身体が一瞬大きく傾いたとします。
転倒には至らず、利用者にもけがはありませんでした。
職員自身は「支えることができたので問題はなかった」と判断するかもしれません。
あるいは、ヒヤリハットという言葉の意味は知っていても、
どの程度の出来事を報告するのか。
誰に伝えるのか。
口頭だけでよいのか。
報告書には何を書くのか。
報告すると自分が処罰されるのか。
そこまで十分に理解できていない可能性があります。
日本人職員の間では暗黙の了解になっていることも、外国人職員には伝わっていないことがあります。
「危なかったら報告してください」
という一言だけでは、何をもって「危ない」と判断するのかが分かりません。
さらに、日本語への不安があれば、事実を正確に説明できないことや、間違った表現をすることへの恐れから、報告をためらう場合もあります。
厚生労働省も、外国人労働者の安全教育では、日本語理解やコミュニケーションの違いを考慮し、教育内容を確実に理解できるようにすることが重要だとしています。イラストや漫画、多言語教材など、視覚的に理解しやすい教材も用意されています。
外国人職員に必要なのは、難しい専門用語を一方的に説明する研修ではありません。
実際に起こり得る場面を見ながら、
「これは報告が必要です」
「この場合は、まず利用者の安全を確認します」
「事実と自分の推測を分けて伝えます」
「報告は責任を追及するためではなく、次の事故を防ぐために行います」
と、具体的に学べる教育です。
報告した職員に、最初にどんな言葉をかけていますか
職員が勇気を出してヒヤリハットを報告したとき、上司や管理者が最初にどのような反応をするかは、その後の職場風土を大きく左右します。
「なぜそんなことをしたのですか」
「前にも注意しましたよね」
「事故になったら、どう責任を取るつもりですか」
最初からこのように責められれば、職員は次から報告しなくなるかもしれません。
もちろん、重大な過失や意図的な規則違反まで見過ごすという意味ではありません。
しかし、ヒヤリハットを報告したということは、職員が危険に気づき、それを組織へ伝えようとしたということでもあります。
まずは、
「報告してくれてありがとうございます」
「利用者にけががなくてよかったです」
「同じことが起きないように、一緒に原因を考えましょう」
という言葉から始めることができます。
報告した勇気と誠実さを認めたうえで、事実を整理し、原因と対策を考える。
そのような対応が繰り返されることで、職員は「報告してもよい」「困ったときは相談してよい」と感じられるようになります。
報告件数が多い施設は、事故の多い施設とは限りません。
小さな異変を見逃さず、職員が正直に伝えられている施設である可能性もあります。
反対に、報告件数が極端に少ないからといって、安全な施設とは言い切れません。
報告しにくい空気によって、出来事が表に出ていない可能性も考える必要があります。
記録は職員を責めるものではなく、守るもの
ヒヤリハット報告書は、5W1Hを意識し、事実を明瞭かつ客観的に記載することが大切です。
いつ起きたのか。
どこで起きたのか。
誰に起きたのか。
何が起きたのか。
どのような対応をしたのか。
考えられる原因は何か。
今後、どのように防ぐのか。
ここで重要なのは、見た事実と推測を混同しないことです。
例えば、
「利用者がわがままを言って立ち上がった」
では、職員の評価や感情が含まれています。
それよりも、
「午後3時10分、利用者が椅子から立ち上がり、出口方向へ歩き始めた。職員が声をかけると、『家に帰る』と話した」
と記録する方が、状況を客観的に共有できます。
正確な記録が残れば、介護職員だけでなく、看護職、リハビリ職、ケアマネジャーなどが情報を共有し、より適切な対応を考えることができます。
それは利用者の安全を守るだけでなく、適切な対応を行ってきたことを示し、職員自身を守ることにもつながります。
分かりやすい教育と、報告できる職場風土を両輪に
ヒヤリハットを重大事故の予防へつなげるためには、報告書の様式を整えるだけでは十分ではありません。
必要なのは、二つの取組です。
一つは、職員が「何を報告するのか」「なぜ報告するのか」「どのように記録するのか」を理解できる教育です。
文章だけの資料を配るのではなく、イラストや図解、具体的な事例を使いながら、実際の介護場面を想像できる研修が求められます。
もう一つは、報告した職員を必要以上に責めず、組織全体で改善策を考える職場風土です。
どれほど分かりやすい研修を行っても、報告した人が叱責される環境では、ヒヤリハットは集まりません。
反対に、どれほど報告しやすい雰囲気があっても、職員が危険を危険として認識できなければ、必要な情報は共有されません。
教育と職場風土。
この二つがそろって初めて、ヒヤリハット報告は事故防止に生かされます。
小さな「ヒヤリ」を、命を守る学びに変えるために
私たちは、「動画でOJT介護」の法定研修編において、ハインリッヒの法則とヒヤリハットについて学べる教材を制作しています。
教材では「1対29対300」という考え方を説明するだけでなく、入浴介助、面会時の差し入れ、利用者同士のトラブルなど、介護現場で起こり得る具体的な事例をイラストで示しています。
そのうえで、何が危険だったのか、どのように対応すべきだったのか、報告書にはどのような情報を記載するのかを、順を追って学べる内容としています。
本当に大切なのは、研修で得た知識が、現場での気づきと報告につながることです。
そして、報告された情報を個人への責任追及で終わらせず、職員全体の学びと、ケアの改善へつなげることです。
「何も起きなかったから、報告しなくてもよい」
その判断の中に、大きな事故を防ぐための手がかりが隠れているかもしれません。
小さな異変を伝えられる職員。
その報告を受け止められる上司。
事例から学び、同じ危険を繰り返さない組織。
ヒヤリハット報告は、誰かを責めるためにあるのではありません。
利用者の命を守り、ご家族からの信頼を守り、そして介護職員自身を守るためにあります。
私たちはこれからも、難しい制度や考え方を、実際の介護場面と結びつけながら分かりやすく伝え、「現場の行動につながる教育とは何か」を考え続けていきます。








